千利休の茶道を受け継ぐ表千家十五代家元を、2018年に襲名した千宗左さんは、curioswitch代表近衞とは従兄弟の間柄。幼少期の思い出や世界から見た日本など、バックグラウンドを共有する二人ならではの対談が実現しました。
(プロフィール)
1970年京都生まれ。幼名芳紀。表千家家元。一般財団法人不審菴理事長。一般社団法人表千家同門会会。不審菴文庫名誉文庫長。1993年同志社大学文学部卒業、1996年英国バッキンガム大学修士課程修了。1998年2月、大徳寺の福富雪底老師より猶有斎の斎号を授かり、宗員の名を継いで若宗匠の格式を得る。2012年同志社大学より芸術学博士の学位を取得。2018年2月28日、15代宗左を襲名。著書に『近世前期における茶の湯の研究-表千家を中心として』(河原書店)、編著書に『江岑宗左茶書』(主婦の友社)『新編元伯宗旦文書』(不審菴文庫)など
緊急事態宣言を振り返って
近衞:今回はありがとう。従兄弟同士でインタビューは初めてなんで、不思議な気分です。さすがに、芳紀(よしのり)君と呼ぶのは憚れれるので、今回は家元と呼ばせて頂きます。早速ですが、新型コロナウイルスの対応で、京都も大変でしたね。 千:ええ。京都は観光客が激減しました。家元での行事も普段の稽古をはじめ、茶会や献茶式などが軒並みとりやめ、延期、あるいは規模を縮小しての開催になりました。 近衞:来年も影響が出ないと良いですが。 千:正月には初釜もあるので、この影響がいつまで続くのか心配です。 近衞:こちらも、イベントの仕事が次々キャンセルになりました。東日本大震災の時も大変でしたが、海外の影響はほとんどなかった。今回は世界中で起こっているから...。 千:今年は表千家の北加支部(サンフランシスコ)と南加支部(ロサンゼルス)の設立50周年の記念行事があって6月に渡米する予定だったけど、開催どころか渡航もできない状況になってしまって…。 近衞:仕方ないですよね。 千:息子たちも学校も行けないし、かといって遊びに行くこともできないので、精神的にも身体的にも不健全な生活を送ってましたね…(笑)。 近衞:我が家も同じです(苦笑)。ところで、ご長男はもうお稽古始めてる? 千:正月の大福茶など家元での内々の行事には参加することもあるけれど、まだ本格的には関わってないです。自分の時もそうだったけれど、学生の間はまず学校での勉強をしっかりして、いろいろなことを経験して学びなさいということの方を優先で。
表千家の茶室について
茶室「松風楼」の床の前で久しぶりに顔を合わせる家元と近衞。
近衞:表千家不審菴の中で、こちらのお部屋は、普段どのように使われているのですか?
千:ここは「松風楼(しょうふうろう)」という茶室で、家元の普段の稽古や、毎月一日の職家(千家十職)の集まりなど日常的に使っている茶室です。七代如心斎(じょしんさい)好みで、十二代惺斎(せいさい)が1921年に作りました。稽古が見学できるよう三方に鞘(さや)の間※1がめぐらされています。
近衞:なるほど!いま、内弟子の方は何人くらい? 千:年配の人から最近入った若い人まで、全部で30人くらいかな。毎日通ってくるのは若手の5~6人で、稽古場の掃除や準備、家元の手伝いなどをしています。その都度の稽古日や行事の時には担当の内弟子が出てくるし、初釜や利休忌などの大きな行事の時などは全員が集まることになります。
近衞:住み込みの方もいらっしゃる?
千:若手の5人が交代で宿直をしています。
近衞:床の間にかけられているお軸について教えてください。
千:『清流無間断(せいりゅうにかんだんなし)』という一行です。
近衞:無間断(かんだんなし)とは?
千:清らかな渓流が刻々と絶え間なく流れている、という様を表した言葉です。千利休以来の茶の湯の道統が淡々と、しかし決して途切れることなく続いてきたという様相にも通じるもので、一昨年襲名した時にはこの言葉をいろいろな折に使いました。
※1鞘の間:間の脇に廊下のように設けられた細長い畳敷の縁側。
近衞:この花押はお父様のですね。
千:その通り。これは父の而妙斎(じみょうさい)が家元時代に書いたたものです。
近衞:あの屏風も素敵ですね。
千:あれは風炉先屏風というもので、広間の茶室に使います。棚は三木町棚(みきまちだな)。
表千家は江戸時代を通じて紀州徳川家に茶道の指南役として仕えていて、和歌山城下で屋敷を賜っていたのが三木町という場所でした。四代江岑宗左(こうしんそうさ)が和歌山の木材で作ったので、この形の棚を三木町棚と言います。
近衞:弟さんの苗字「三木町」もそこから来ているのですね。
千:そうです。千家では代々、長男以外は苗字を変えるという習わしがあって、弟も結婚を機に姓を「千」から「三木町」へと改姓しました。伝統的にゆかりのある地名から名前をとっていることが多いかな。例えば父の弟は、利休の出身地である堺にちなんで「左海」と名乗っていましたし。
近衞:親戚の話をしていると、尽きませんね(笑)。
千:われわれの親戚関係は、歴史をひもとくと古い時代まで遡れるので面白い。
千家と近衞家
千:表千家には歴代家元が書き残した書状や茶会記などが数多く残されていて、その中には近衞家の歴代の名前もいろいろと出てきます。ご先祖同士が交流してきた両家の末裔である私たちが、今こうして親戚として対談しているのはなんとも不思議な感覚ですね。
表千家本玄関前にて。千利休の没後、後嗣の二代少庵は京都を追われて会津若松の蒲生氏郷のもとで数年を過ごす。その後、徳川家康と蒲生氏郷のとりなしにより、1594年頃、豊臣秀吉から許されて帰京した少庵は、息子である三代元伯宗旦とともにこの地(京都小川通寺之内)において千家を再興した。
近衞:わかります(笑)。そう言えば、千利休と近衞家の接点はいかがでしょうか?
千:近衞前久※2(さきひさ)は織田信長を介して利休と接点があったようですね。近衞信尹※3(のぶただ)は利休と直接の縁がありましたが、むしろ利休の弟子、古田織部と親しかったようです。後陽成天皇の第四皇子で信尹の養子となった信尋(のぶひろ)※4は、織部に茶を習い、利休の孫である三代元伯宗旦(げんぱくそうたん)※5とも密に交流していたようです。
家元に残されている文書史料の中には、宗旦が建てた一畳半という、わびの極致ともいうべき極小の茶室に信尋を招いたことや、江岑が信尋の茶会に招かれた記録などが残されています。
また近衞尚嗣(ひさつぐ)※6 が宗旦の教えを元に書いた茶書『茶湯聞塵(ちゃのゆききちり)』は現在陽明文庫に所蔵されていますね。
それから、六代覚々斎(かくかくさい)は1726年に近衞家熙(いえひろ)※7に大徳寺でお目見えして薄茶を献じてますし、その後、家煕の河原御所の茶会に今度は覚々斎が招かれたという茶会記もあります。
近衞:宗旦の頃はまだ、三千家に分かれていないんですよね。
千:宗旦の息子のうち、江岑が宗旦から家督を継ぎ、その他の兄弟もそれぞれに茶家として独立し、表千家、裏千家、武者小路千家という三千家が成立したのです。
宗旦は80歳という、当時としては非常に長寿でした。宗旦自身は大名に仕官をすることはなく、経済的には厳しい状況でわびた生活をしていたのだけれど、一方で交友関係は幅広く、茶の湯を通じた様々なつながりがありました。そのうちの一人が近衞信尋だったのです。
※2 近衞前久(1536-1612):戦国・江戸時代初期の公家。関白という公家最高位にあって上杉謙信、織田信長、徳川家康など武家とも交流。
※3近衞信尹(1599-1649):前久の子。書や和歌に優れ、本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と称された。
※4 近衞信尋(1599-1649):父は後陽成天皇。信尹の養子となり、藤原鎌足を始祖とする五摂家筆頭近衞家を継ぐ。古田織部に茶を習い、書や連歌、絵を嗜み、実兄・後水尾天皇と有職故実を発展させた。
※5 千宗旦(1578-1658):千家三代。二代少庵の子。生涯仕官せず清貧な生活に徹し「わび宗旦」ともあだ名された。一方で東福門院を中心とする宮廷サロンにも出入りし、寛永文化を担う中心的な一人でもあった。長男宗拙は早くに家を出たが、他の3人の息子(江岑宗左、仙叟宗室、一翁宗守)がそれぞれ茶家として独立し、三千家が成立した。
※6 近衞尚嗣(1622-1653):信尋の子。後陽成天皇の孫。和歌と書に秀でた。□を能くした。
※7 近衞家熈(1667-1736):有職故実に通じ、和歌、茶道、華道、香道を嗜み、書や絵も達者。表装においても多くの作品を遺す。江戸中期のマルチクリエイター。
軽井沢で深まった従兄弟の関係
千家・近衞家・細川家の関係図(現代)
近衞:僕は生まれたときから近衞ですが、父※8はもともと細川家の生まれで、社会人になってから近衞家を継ぎました。家元はお母さんが細川家の出ですね。それで我々はいとこ同士ということになるのだけれど、千家と細川家とはいつ頃からのご縁なのですか?
千:やはり利休の時代からですね。細川三斎(さんさい)は「利休七哲」という利休の優れた武将の弟子の一人に名前があげられます。1591年に利休が豊臣秀吉の命で京都から堺に追放された際、三斎と古田織部が淀の川べりまで見送りにきたというエピソードはよく知られています。
そうした先祖の交友関係が今に通じているのは、本当に不思議な感じですよね。
近衞:確かに。
私たちは、京都と東京で離れていても、共通の祖父・細川護貞の別荘が軽井沢にあったから、一緒に過ごす機会も多くて、同い年のいとこで、幼い頃から比較的仲よかったですね。あの頃、親たちも1カ月くらい休みとって……いまじゃ考えられません。
千:夏はお茶の行事も少ないのでかなりゆっくりしていました。私の家族も夏は信州で過ごすことが多かったので、その流れで軽井沢の祖父の別荘で従兄弟たちと合流したんですよね。
近衞:僕は初めて自転車に乗ったのは軽井沢でした。屋根裏でコウモリとったのも覚えています。あと、毎年蛇の抜け殻の新しいのがあって、まだ棲んでいるんだ、みたいな。
千:あのお屋敷は今でも残ってるのかな?
近衞:いえ、なくなっちゃいました。祖父の存命中に。
千:スイスに行ったのは何歳の時?
近衞:2歳から5歳までと、そのあと11歳から15歳まで。だから小学校高学年は日本にいた。
千:近衞家の送別会を親族集まってやったのを覚えています。われわれが11歳頃の時かな。
近衞:そう、小学校4年のとき。六本木の中国飯店で。スイスに行く送別会なのに、なぜか中華。当時親戚で集まるときは、いつも中華でしたね(笑)。
千:ほんとに…(笑)軽井沢でも中華に行ったのが一番印象深い…。
近衞:なぜ中華……単なる趣味ですかね。
千:近衞家がスイスに行くまで毎年、軽井沢は夏の定番の過ごし方でした。
幼少期の千宗左さん(左)と近衞忠大(右)
近衞:15歳の時、帰国してすぐに軽井沢に行きました。その時は母方の三笠宮※9(みかさのみや)の別荘でしたが、御巣鷹山の日航機墜落事故があって、祖母が「いま何か不思議な音しなかった?」って言ったのを覚えています。その頃すでに細川の別荘はなくて、自転車で見に行ったら、さら地になっていました。 千:軽井沢の桂並木は風情があって今でも印象に残ってるけど。
近衞:屋敷もディズニー映画に出てきそうな感じで。
千:中学、高校になると、お互い学校の部活などがあって夏に集まることも少なくなったのかな。
近衞:お正月は忙しいし。
千:年末年始は家元での行事があって特に忙しい。
近衞:家元は、海外に長く滞在したのは大学のあとですよね。
千:大学を卒業して、イギリスのバッキンガム大学に留学して美術史を専攻しました。バッキンガム大学はいろいろな国からの留学生を受け入れている大学で、あるとき、それぞれ自国の文化を紹介するイベントがありました。日本人も10人ほどいたので、折り紙やけん玉など日本の古来の遊びを紹介したり、日本のお惣菜を作って振る舞ったり。そのなかで自分はお茶を点てて皆に飲んでもらいました。持参していた携帯用の茶箱をつかって、和菓子もロンドンのデパートで手に入れて。とても印象深い思い出です。
近衞:何年いたのですか?
千:2年半ほど。
※8 近衞忠煇(1939-):日本赤十字社名誉社長。細川家十七代当主細川護貞の次男。母は近衞文麿の次女温子。兄は元内閣総理大臣の細川護熙。母方の近衞家に後継がいなかったため1965年近衞家の養子となった。
※9 三笠宮:大正天皇の第四皇男子・崇仁親王(1915-2016)の宮号。近衞忠大の母・甯子は、三笠宮崇仁親王の長女である。
家元が学部・大学院を通じて行ってきた研究の集大成『近世前期における茶の湯の研究-表千家を中心として』
(河原書店)
近衞:現地の学生や留学生は、家元が茶道のお家の人だということは? 千:説明しても、なかなかうまくは伝わらなかった(笑)。 近衞:お茶の家、だと栽培農家のイメージになるのかな? 千:イギリスは紅茶文化なのでお茶というものは身近に感じるのだろうけれど、そのお茶を飲むのに作法があって、さらにそれがどうしたら代々の家業になるのかということは不思議がられました。でも、イギリスという国は歴史や伝統を重んじる国なので、そうした歴史がある家なのだということは、ある程度理解してもらえたと思います。 近衞:今でこそ茶道の認知度が高まりましたが、当時は、ほとんど知りませんからねえ。 千:Tea Ceremonyという単語自体は当時からある程度認識されていたけれども、茶道をどのような視点でどのように伝えればいいのかということは自分なりに考えたし、そういう視点は留学によって養われたのかなと。そしてそうした視点というのは、決して海外の人だけではなく、今の日本の若い人たちに啓蒙するうえでも必要なものなのではないかと思いますね。 近衞:イギリス人にはどう説明するのですか? お茶事の説明から? 千:まず同じ「お茶」でも紅茶(black tea)とは製法の異なる「抹茶(powdered tea)」というものがあることから…(笑) 400年ほど以上前に先祖である千利休という人物が点前や所作を定めて茶道を確立したこと。それが現代に伝えられているといったこと。また道具も茶道で用いる専用のものが作られて代々伝わる、といったことなどは興味を示してくれましたね。 近衞:作法という言葉は難しい。そもそもセレモニーではないし、儀式のような感じだけど、儀式じゃない。 千:たしかにTea Ceremonyという言葉自体が、茶道というものを端的に訳したものではないので、言葉を足して説明することが必要だと感じましたね。 近衞:私もスイスで日本のことを説明するのが大変でした。当時は、あのクルマやあのバイクを作っている国だよ、という説明しかできません。みんな興味がないし、中国の一部だと思っている人もいて……。そしてどちらかというと差別されるから、日本人であることをわざわざアピールしませんでした。
ジュネーヴのインターナショナルスクール「プレニー校」時代。同じクラスに14カ国の子供が集っていた。
近衞は上段左から4人目。
千:ああ。2〜5歳、11〜15歳という年齢だとやはり。
近衞:ヨーロッパの田舎のほうに行くと、道の向こう側から睨まれたりして。でも、モーターレースで日本が優勝するようになってから日本に対するイメージが良くなってきました。逆に、自分は日本のこと、伝統文化のことを知らないから、説明できずに恥ずかしい思いをしたこともあります。インターナショナル・スクールでは自国を紹介することがよくあるのですが、知らないのです。これは言葉ができないという問題ではなく……。
千:そもそも、語れる内容を知らない。
近衞:そうなんです(苦笑)。
外国人とお茶
千:留学時代にいろいろな国の人たちと話す機会がありました。特にヨーロッパの国の人たちは自国のことをとても誇らしげに語ってくれます。そうしたなかで自分は茶道のことについて話すわけだけれど、そうしてそれぞれの国に誇れる文化があるのは素晴らしいことだと感じました。そうした経験を通じて茶道という日本の伝統文化を伝えていくことの意義を再認識したような気がします。
もちろん、留学していなくても今と同じように家元として茶道と関わっていたと思うけれど、やはり留学によっていろいろと見えたこと、感じたことがあって、それが今の自分の中で大きな部分を占めています。
近衞:海外のお客様とのコミュニケーションで、普段意識していることはありますか
千:海外には先ほど話した北加、南加支部に加えてハワイ、米国東部に支部があります。またそれ以外でも海外在住の方でお稽古をしている方もいて、家元の講習会に参加されたりもしています。そうした方々はある程度茶道の素養があるので、自分がイギリス留学時代に経験したような壁はありません。 3年前にはイギリスのメイ首相(当時)が安倍首相の案内で表千家にいらっしゃいました。その時はこの松風楼でイスとテーブルを用意してお茶をお出ししました。祖父の即中斎(そくちゅうさい)の時代にウェッジウッドで見立てた水指があったので、そうした英国ゆかりの道具も取り合わせて、喜んでいただけたと思っています。 また別のときには、ヨーロッパの研究機関に所属している若手の研究者たちに茶道を体験させてほしいという依頼がありました。まずお茶席に座ってもらって一服味わってほしい、という思いもあったので、作法云々は問いませんからまず一服飲んでください、と伝えたんですね。そうすると片手で茶碗を持ち上げて……。 近衞:そうですよね、ヨーロッパではティーカップを両手で持ちませんからね。 千:その道具が高価であるかどうかに関わりなく、亭主が用意してくれた大切なお道具なので、それを両手で丁寧に扱うのは日本人であれば自然なことだと思います。そうした思いが所作となって自然に表れてくるものだと思うけれど、そうしたバックボーンの違いは所作にも表れてくるのかなと思いました。 文化や伝統というのは、その国の気候風土、そこに住む人々の価値観といったものが根底にあって育まれるものだけれど、海外の人たちに伝える中でそうした違いは埋めていく必要があると感じます。
近衞:丁寧に扱う、大切にするという仕草が違いますからね。向こうとしては丁寧に扱っているつもりでも、見え方が違うんですね。その違いを理解した上で、伝えていかないといけない。私が携わっているお能※9でも同じように、外国の方に説明するのが難しい。「どうしてこんなに長いのか、なぜ場面がまったく動かないのか」と言われます(笑)。 千:欧米の舞台芸術と比べると。 近衞:お能には舞台演出というものがありません。だから「今いったい何が起きているのか?」って途中で聞かれます(笑)。向こうの感覚だと、何かを演じるというのは何かに寄せる、似せるということ。ところがお能の世界はリアリティを求めません。そもそも男の人しか演じないし、登場人物の年齢も関係ない。若い女性の役でもおじいちゃんが演じます。だから欧米の人は感情移入できない。表現しているのは、もっと精神的なもの、概念的なものだというのを理解してほしい。 千:言葉で伝えるのは難しい...。 近衞:ヨーロッパの若い方たちには、お茶の飲み方を説明されたのですか? 千:もちろん。説明をすると皆さん納得されて、片手ではなく両手で茶碗を扱ってくれるようになりました。 近衞:それは良かったですね。
※10:近衞忠大は能楽・喜多流の公益財団法人十四世六平太記念財団の理事長も務めている
伝統文化について
千:茶道に限らず、日本の伝統文化は昔のものがそのまま今に伝わってきているわけではない。もちろん根底にある大切な部分は変わらずに受け継がれているわけですが、茶道が伝えられてきた中では、歴代家元がそれぞれの時代の要請の中でその時代の茶の湯のあり様を模索してきた、その結果として今の千家茶道があると思っています。 そういったことを大前提として、今の時代の要請として、決して「変化」だけが求められている訳ではないと思います。特に価値観の移り変わりが激しい現代だからこそ、変わらない大切なものを変わらず伝えていくことは重要だと思っています。 実際、生活習慣や趣味が多様化する中で、伝統文化は敷居はが高いと思われる部分があるのかもしれない。しかしその敷居を安易に下げることで本質が変わってしまっては元も子もないと思います。敷居は高いままであっても、それを超えやすくする取り組みや考え方は必要なのではないでしょうか。
近衞も海外経験によって日本の伝統文化をもっと世界へアピールすべきと感じるように。
近衞:戦後に教育が変わったことが一因だと思います。義務教育の段階で日本文化の大事さや自国の紹介方法が教えられないから……それが大事だと気づく場がないのは問題ですね。他国では、ナショナリズムというと言い過ぎですが、自分たちが何者かということを子どもたちにきちんと植え付けます。京都にはまだそういう雰囲気が残っていますが、おそらく一般的には伝統文化の大切さに実感が沸かなくなっている。 千:これだけ海外との接点も増えてくると、自分がイギリスにいた時に感じたこと、忠大君がスイスで感じたことに共感する人も出てくると思いますけどね。 近衞:知り合いの経営者に、伝統文化に興味がある、お稽古を始めたいという人が何人かいます。変わった経歴の持ち主ばかりで、海外生活が長いと、大人になって日本文化に触れたいと感じてくる。一般企業に勤めてずっと日本で生活してきた人よりそういう人の方が積極的で、知りたいことが明確なのでしょう。 千:茶道というのは、女性の花嫁修行の一環として捉えられた時代がありました。もちろん今でもそういった側面はあるのでしょうが、グローバル化が進む中で、日本人として日本文化を学びたいという意識を持つ人が多くなっているような気がしますね。 近衞:それが本来あるべき姿ですね。 千:家元で若い人を対象にした短期講習会を年に二回催しています。家元に隣接する日蓮宗大本山の妙顕寺というお寺で寝泊まりしながら、朝から一日中家元の稽古場で稽古をするというものです。その受講前に、講習生には茶の湯について考えていること、どのような動機で稽古を始めたのかといった作文を書いてもらうのだけど、最近は海外との接点が増える中で、日本人として日本の伝統文化である茶道を学びたいとの気持ちが芽生えたという内容を多く目にします。 そうしたことも関係しているのか、以前は受講生の大半が女性で、男性は1人、2人いれば珍しいな、という感じだったけれど、近年は以前と比べて男性の割合が大幅に増えてきました。 近衞:良い変化ですね!確かに、同世代の経営者には、茶道や書道をやる人が徐々に増えているように感じます。 千:いろんな意味で、余裕がある人が出てきた。 近衞:そう。余裕のある人たちにやってもらわないとダメですね。
経営者と数寄者について語らう千さんと近衞
千:自分の周りの経営者たちも、茶道を嗜みとして必要だということを感じているようです。何かきっかけを与えて、入口を開けてあげることも必要なことだと思っています。 近衞:本来であればノブレス・オブリージュというように旧華族とかが担っていないといけないのですが、今の日本では社会構造的に難しい。伝統文化を受け継いでいる人、あるいは旧家に生まれた人自身が、そういう気持ちを持つべきです。できることは限られていますが。意外とマッチングサービスなどいいかも知れませんね。伝統文化の担い手と、若い経営者をつなげるような。 千:いろいろなご縁できっかけを与えられたらいいなと思いますね。 近衞:探している人は多いはずです。IT系の若くして財を成した人が、何か始めたいけど、どうして良いかわからない。そんな人に、どうせなら面白いこと、役に立つことしませんか?と持ちかけたいですね。 千:明治維新を機に、茶道など日本の伝統文化は、大名家の庇護もなくなり、海外の生活習慣が伝わってきたことで省みられなくなって衰退の時代に入りました。そうした茶道が復興するきっかけになったことの一つは「近代数寄者」といわれる益田鈍翁(ますだどんのう)や松永耳庵(まつながじあん)など政財界の人たちが、日本美術に興味を持って、その中にお茶も取り入れたことです。彼らのエネルギーが、伝統文化が復興するための一つのきっかけとなりました。そういう外部のエネルギーというものはいつの時代にあっても良いと思います。
今後の活動について
千利休居士画像 長谷川等伯筆 春屋宗園賛(表千家不審菴蔵)
近衞:本当にそう思います。ところで、表千家の今後の活動はどうなっていますか? 千:この2月から不審菴で家元襲名の披露の茶事を始めていて、当面はその茶事を続けていくことが大切な行事となります。 あと、2022年は千利休の生誕500年という年に当たります。ただ、茶道の世界では没後何年という年忌のほうに重きを置いているので、再来年に生誕を記念して特に大きな催しは考えない、ということは三千家で申し合わせをしています。そうはいってもそうした巡りの年に当たってを理解してもらう機会になれば良いなとは思います。 年忌でいうと利休450回忌というのが約20年後、私が70歳過ぎの頃に巡ってきます。400回忌の時(平成2年)は自分は大学生だったけれど、三千家合同で大徳寺で追善の法要・茶会を催したり、京都国立博物館で「千利休展」が開催されたり、さらには千利休の映画も作られたりと非常に大きな節目であったことを覚えています。ですから20年後とはいえ、頭には入れておかないといけません…。ただ利休だけではなく、さっきも言いましたがそれ以降の歴代家元がいてこそ、千家茶道は今日まで受け継がれているのだと思います。特別なイベントというよりも、日々の行事や勤めを大切にこなしていく中で自然に茶道につながっていく、そしてそうしたものが伝統になっていくのだと思っています。
近衞予楽院像 九峰自端賛 寛深画
近衞:自然なのがいいですね。私の会社では、藤原道長の没後1000年と、近衞家熈の没後300年のプロジェクトを進めています。 千:それはいつ頃? 近衞:道長が2028年、家熙が2036年です。道長のほうは、展覧会の協力に名乗りを挙げて頂ける方々が見つかりはじめていて、国宝「御堂関白記 ( みどうかんぱくき ) 」を軸にどのような新しい展示構成にするのか、今からあれこれ考えています。また、家熈については、二百回忌の際に、近衞文麿が法要と追善茶会を大徳寺で執り行い、京都で展覧会も開催されました。三百回忌でも、当然法要と追善茶会、さらには展覧会を大々的に行いたいと考えています。気が早いかもしれませんが、様々な方々のお知恵とお力を借りて、準備を進めていますので、家元も、ご協力よろしくお願いします(笑)。 千:こちらこそよろしくお願いします。では、そろそろお茶にしましょうか。 近衞:おや、もうこんな時間だ。長々とお時間取らせてしまってすみません。 千:いえいえ、今日はありがとう。ではどうぞお茶席へ。 近衞:今日は、本当にありがとう。
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